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珍しく、ちょっとマジメに考えてもらいたい話。
前阿久根市長の竹原信一氏のブログに表題のような記事があった件についてね。 ![]() http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20110211 ------ 2011/02/11 (金) 公(おおやけ)は「どろぼう」 私が市長をしている時、窓口に住民票を取りに行った。書類に名前などを書いて出した時、職員から「運転免許証など身分を証明するものをお持ちでしょうか」と聞かれた。私は、思わず「泣かすぞ!」と言ってしまった。すると他の職員がその職員に対して「住民票出して」と言ったので私はそれ以上言わなかった。小役人は自分の親に対しても真顔で「身分証をお見せください」とやるのだ。公務員は人間性も正義感も無いロボット、血も涙もない。 阿久根市役所に限った事ではないが公務員の言葉には真実を感じることがない。慇懃ではあるがまるでロボット、正直さも感じられない。公務員には(公務員以外に対する)社会的責任感が感じられない。正義感などまるで無い。ありそうに見えたらそれは芝居だ。 公務員には社会全体を感じようとする気がない、力もない、許されない。自分の前だけある小さな小さな枠組みだけを見ている。市民の現実や真実を見て市民に対する人道的責任を果たそうなどとはしない。彼等は人間性において完全に無力なのだ。役所の仕事に関して魂を放棄しなければ公務員を続ける事さえ難しい。 「公的に認められた」とは、「公務員的な手続きを済ませた」つまり、「公務員全体の利益に反しない」そして当然、「概ね一般人全体の利益に反する」そういう意味である。 日本の「公(おおやけ)」は正義感を放棄した「どろぼう公務員全体」のための「どろぼうロボット公務員」によるどろぼう社会である。 それは警察と検察、裁判所の組織をあげての裏金作りで既に証明されている。裏金作りは、絶える事無く現在も行われている。警察、検察、裁判所は最も悪質な強盗団と呼ぶべきだ。 公務員が言う公(おおやけ)や裁判所を「どろぼう公務員」と置き換えれば真実が見える。一般人は小役人すなわち「どろぼうロボット公務員」のウソ芝居に騙されないようにしなければならない。 何度でも重ねて言いたい「役所はどろぼうだ」 現在、阿久根市では議会解散のための住民投票の期日前投票がおこなわれている。多くの市民は、「選挙管理委員会や職員が不正をする」と思っている。阿久根は名古屋よりも危険だ。市民が目覚めてしまった。 ------ 言ってることはあながち間違いでもないと思う。 これはいまの日本のどこにいっても存在する現実だろうからね。 それはさておき、おいらがずっと前から感じているのは、そもそも、この国の「公」と「民」の概念って少々おかしいんじゃないかってことだ。 いまの日本において、公とは完全に民から分離されたもののように思われている。 しかしながら、ここが民主主義国である以上、公というのは、民の総意に基づいて存在するものであるはずだ。 少なくとも、制度上の話を言えばね。 現実はそうではないと言えば、話はそれまでかもしれない。 しかしながら、過去を冷静に振り返れば、公のことはよくわからんから、公の人たちにやらせておけばいい、と放り投げていたのが、いわゆる民の態度だったわけだ。 それがうまくいっているうちは、異論などわずかだったわけだが、最近になって、主にマスコミがいろいろとほじくり出して民の怒りに火をつけ、そうして公への攻撃が始まったというのが現実ではないのかと、おいらは思うわけだ。 ちなみに、いわゆる公が大きな失敗を続けてきたこの20年というのは、公ばかりが太ったように言われているわけだが、事実はまったく違う。 大企業、外資、マスコミ、売国政治家、特定の個人など、国民の富を「横流ししてもらった」連中全員が太っていたわけだ。 そういう意味で考えれば、公というのは、そいつらの一部でしかないし、意志を決定できる人間など、そのうちのほんの一部しかいない。 おいらはむしろ、公というものが乗っ取られたと考える。 そして、公が民のほうを向かないように、お互いを衝突させる情報操作をしてきた最大の害悪こそ、マスコミというものだと思うわけだ。 前に、どうして公務員はたたかずに、マスコミばかりをたたくのかと言われたことがある。 これ、ものすごくカンタンな話だ。 第一の理由は、必要性。 いわゆる大手マスコミなんぞが消え失せたとしても、その代わりとなるものはいくらでも出てくるし、別段問題はない。 しかし、公務員に関しては、もちろんすべての業務というわけではないが、存在してもらわなければ国家が成り立たなくなる。 第二に、そもそもの成立過程。 役所というのは、国家とか地域とかの概念が成立した段階で必要に迫られてできたものだ。 しかし、マスコミというのは、最初から情報操作と世論誘導を目的に成立したものだというのがおいらの主張だ。 というよりも、世の中に完全に客観的な人間も組織も存在するわけがないので、前の記事で書いたように、誰もが自由に発信できるシステムでなければ、存在自体が邪魔であると考えるわけだ。 第三に、その活用方法だ。 小沢一郎氏が主張しているように、官僚には仕事のできる優秀な人が大勢いるわけだが、組織としての問題で身動きができなくなっているという現状がある。 だからこそ、政治を機能させることによって、いくらでも国家や地域のために活用する道はあるわけだ。 というよりも、仮にこれらの構造をすべてぶち壊すというのなら、いままでのように公と民を完全に分離しておくということはできなくなる。 民の側にそれだけの覚悟があるのか、という話だ。 で、最近は、なんでも民営化すればいいような話が蔓延しているわけだが、それはマスコミがねつ造した、お仲間への富の横流し、つまり、それこそがどろぼう行為でしかない。 あたくしが単なる公務員たたき、とくに中央官僚たたきが、重要なものからの視点逸らしだと思ってるのも、実はこのへんに根拠がある。 一番大事なのは、民が政治参加し、自分たちで公を所有していくことだろう。 それがなされなければ、公とか民とかではなく、本当のどろぼうに、みんなまるごと持って行かれることになるわけだ。 そんなことを考えているうちに、あることに思い至った。 この世には、なにやら「社会正義」だの「公共の利益」だのって言葉を振りかざすヤツらが大勢いるわけだ。 で、社会や公共の利益ってなんだって話になる。 現実は、竹原氏が書いている、公というどろぼうも含めて、どっかの誰かさんの利益になってたりすることが多い。 いまの消費税増税論なんてまさにそれでしょ? ひどい連中だと、増税を嫌がる人なんてのは、将来への負債の押しつけだとか、社会全体の利益を考えてない身勝手な人間だとレッテル貼りまでやっている。 だが、バナーでも消費税のウソの記事でも解説したように、消費税なんてのは、もとより一部の人間の利益にしかならないものなわけだ。 こういうウソを見破る最大のヒントは、公でも民でもなく「私」というものにあると思う。 まずは自分の利益を最大の基準として考えること、これが重要なのだ。 おいらのような利己的な人間は、とくに増税とか負担増なんて話があると、本当にそんなもんが必要なのか、徹底的に調べる。 逆に、なにか得になりそうな話でも、実際それが本当にそうなのか検証するわけだ。 自分にあてはめて考えようとしない人ほど、公共の利益のようなワナにかかりやすいとおいらは思う。 そして、その身勝手な私の集合体が民であり、その民が共有するのが公であり、その公をうまく活用するのが民によって選ばれた政であるという、ごく当たり前の民主主義に変わっていかなければならない。 それができないなら、民主主義なんてものはむしろ危険なシロモノでしかないと思うが、どう思う? まあ、おいらの考え方がマイノリティーなのはわかってるんで、べつに非難されてもかまいやしない。 だけど、これ、本当にひとりひとりが考えないとならない問題だと思うよ。 |
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201102141724 |
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